デ・コーニンクの紹介
デ・コーニンクはアントワープの代表的な地ビール
アントワープはシュケルデ川沿いにある港町で、フランダース地方の町としてはブリュッセルに次いで大きく、今現在で人口が46万人程になります。
ただしアントワープ Antwerpというのは 英語の表現で、(小説「フランダースの犬」が英語文学であり、この小説を通してアントワープの町の名が日本で知られるようになったため、今でも、この英語の表現が日本では一般的なようです)
地元オランダ語ではアントウェルペン Antwerpenと言います。
(フランス語では Anversと書き、ベルギーのフランス語=ワロン語でアンヴェルス フランスのフランス語でアンヴェールと読みます。ドイツ語では昔はアントルフ。今日ではオランダ語と同じアントウェルペン Antwerpenです。)
アントウェルペンは「フランダースの犬」では町の名前として出てきますが、今現在は「アントウェルペン県」「アントウェルペン市」「アントウェルペン区」の三つがあります。つまり、小説「フランダースの犬」の舞台となったアントワープの旧市街の辺りは、アントウェルペン県のアントウェルペン市のアントウェルペン区ということになります。
アントワープの町は、港、ダイヤモンド、ルーベンス、ファッションによって知られています。ベルギー人にとってはアントワープの町として思い浮かべるものとして、これらに聖母大聖堂、動物園が加わるそうです。
アントワープの由来にまつわる物語
観光ガイドには、アントワープの地名の由来として「ブラボーの物語」が出ています。
今から、二千年程前のことシュケルデ川沿いの要塞に、アンティゴーンDruon Antigoonという巨人がいました。シュケルデ川をまたいで立てる程の巨人でシュケルデ川を通る船が股の下を通る時に重い税を課していて、もし、税を払わない船がいるとその船の船長の手を 手首から切り取って捨てていました。
紀元前57年頃、ジュリアス・シーザーは北ヨーロッパへ遠征に来ていましたが、ローマ軍を率いていたローマの勇士で、ジュリアス・シーザーの甥である「シルヴィウス・ブラボー Silvius Brabo」がその話を聞きアンティゴーン征伐にやって来ます。
数時間の格闘の後、アンティゴーンを倒したブラボーは巨人の首と右手とを切り取り、右手をシュケルデ川へと投げ捨てました。
それ以来、この町は「hant(手)+ werpen(投げ捨てる)=(h)antwerpen」と呼ばれる様になりました。そして、ブラボーによってアンティゴーンの圧制から開放された地域が、彼の名前を取って「ブラバントBrabant地方」と呼ばれるようになりました。
この話によってアントワープは二人の英雄を持つことになります。
一人は アントワープの町を拓いたアンティゴーン、もう一人が シュケルデ川を開放したブラボーです。
ただしこの話には他にヴァリエーションがあります。
ブラボーがやって来るという話を聞いたアントワープの7人の若者が「よそ者に手柄を取られたくない」とブラボーよりも先にアンティゴーンに挑戦を挑みます。しかし 巨人を倒すことはできず、そこにやってきたブラボーがアンティゴーンを倒すことになります。この時に戦ったアントワープの7人の若者がその後アントワープの名門と言われる七つの家の元になりました。)
このブラボーの話は15世紀頃の作り話です。しかし、昔のアントワープの人々はこの話を真実だと信じていました。1512年 Jaen Lemaire des Belgesによって編纂され出版されたこの話の本の表紙裏にはブラボーの家系図が載せられていて、それはジュリアス・シーザーの甥であるブラボーから初まって、その当時の統治者であるカール五世にまで続くものでした。つまり、神聖ローマ帝国皇帝・スペイン国王・オランダ国王・オーストリア大公・シチリア国王・ナポリ王・ミラノ公・ボヘミア王・ハンガリー王となったカール五世が、いかにもシーザーの血を引く、由緒ある家の出であるかのように思わせるものでした。丁度その頃、シュケルデ川岸を掘る工事現場で大きな骨が発見されて、人々は「(とうとう)巨人アンティゴーンの骨が発見された」と思って市庁舎まで運び込みましたが、結局は鯨の骨だということが分かりました。
Tweet |